港ヨコハマ物語

7月7日。横浜港内で開催される「第37回横浜港ボート天国ディンギーヨットレース」に、昨年に続きパラオから7人のジュニアセーラーと保護者、総勢13名が来日しオープン参加する。
昨年の同大会は強風下でぼろ負けしたパラオ勢だが、その後練習も重ねてきたようで。さてさて今年はどうなるか。

で、今回はその舞台となる横浜港について、改めてみてみたい。

西波止場と象の鼻

黒船来航が嘉永6年(1853)。翌年の「日米和親条約」締結を経て、安政5年(1858)の日米修好通商条約に基づき横浜港が開港される。……と、江戸時代のお話です。

米国側では開港の地に対岸にある神奈川湊をイメージしたようですが、幕府としては半農半漁の寒村横浜村を選んだというか押しつけたというか、なんとしても外部から遮断された開港場を新設したかったというわけです。

その辺り、2019年の「第1回 日本-パラオ親善ヨットレース」開催に当たってセッセとこちら日パラ通信に書いた記事がこちら。

大桟橋ができたのが明治27年(1894)。建設には米国からの賠償金返還金が使われて、というあたりも

に書きました。

開港当初は2本の突堤があるだけ。
突堤とは、陸地から付き出した堤(つつみ)のこと。
堤とは、川や池から水が溢れないように、石や土を盛り上げて造成した部分のこと。で、海岸から海に突き出せば突堤。
江戸時代のことですから、石積みだったようです。

文久3年(1863)にはさらに東側、今の山下公園あたりにもう1本突堤ができて、こちらを東波止場。最初に作った2本を合わせて西波止場と呼びました。

西波止場の突堤は長さ109m、幅18mといいますから結構なサイズではありますが、外航の旅客船はとうてい横付けできず、すべて沖留め。手漕ぎの艀(はしけ)でこの波止場との間を行き来していたわけ。

このあたりは北東に開けた海岸線となって、特に冬場の季節風が吹き荒れるともろに波が打ち込み船が着けられなかったもよう。
そこで、慶応3年(1867)東側の突堤を湾曲させて延長。その形状から「象の鼻」と呼ばれ大桟橋の付け根に今も残っています。

このあたりもこちらの記事で紹介しました。

この頃は人の移動も海路しかなかったわけで。港が日本の入口だったわけです。
そこでの褌一丁ぶりを『横浜港の七不思議』(田中祥夫著)では、

腰にまわした幅の狭いベルト(褌)のほかはまったくの裸である。(中略)一押し一引きするごとに、かみしめた歯の隙間から短く息を吸ったり吐いたりして半分謳うようなシューシューという音をさせていた。この音は時々、叫び声とも呼び声ともとれる「ジッキ!ジッキ!(直き、じき)になり、お互いを励ましているようだった」{江戸幕末滞在記()内原文}

等とあり、
明治8年(1875)に書かれた「クララの明治日記」でも、

12時に入港するはずだったが、潮の流れが強すぎて港に着くことが出来ないので、私たちは午前中も午後もずっとデッキをうろついていた。岸に近づくにつれ、たくさんの漁船がみえて来たが、それに乗っている人々は素っ裸だ。〈ショッキングだ!〉

と14才の少女をびっくりさせています。
と、上の記事を書いた当初は、なんでまた褌一丁なのかと思ってましたが、よく考えれば江戸時代の飛脚なんかも褌一丁でスタコラサッサと走り抜けて行くイメージで。なら海の上でも同じような格好をしていても不思議はないな、と。
改めて褌(ふんどし)についてググってみると、なかなか面白いです。今でもお祭りなんかでは褌というかシメコミ姿はよく見るわけだし。
ふんどし再認識。



と、ここまでがこれまでのおさらい。
で、今回ご紹介するのは、こちら「今昔マップ on the web」から。新旧の地形図を切り替えながら表示できるサイトです。このサイト、すごいです。見てると時間を忘れます。

大桟橋と新港埠頭

まずは、明治39年(1906)測図、明治41年(1908)製版のこちらから

画面左が古地図。右が現在(ちょっと古いみたいだけど)になります。
横浜築港の第1次工事は、鉄桟橋に加え防波堤と馴導堤(じゅんどうてい)の建設で、馴導堤とは川からの泥流を港外に導くもの。上の古地図の西側にあるものです。

防波堤はコンクリートブロックで構築されました。石積みの技術は江戸時代からかなり高かったはずですが、コンクリートなんてモノも明治維新後に海外から入ってきた技術で、これが工事途中でひび割れが発覚したりしてなかなか予定通りにはいかなかったもよう。

で、第1次築港工事は明治29年(1896)に竣工。これでやっと港らしくなります。

ちなみに、
日清戦争が明治27年(1894)-明治28年(1895)。
日露戦争が明治37年(1904)-明治38年(1905)。
なんですが、

明治32年(1899)からは新港埠頭埋め立ての第2次築港が始まります。
上の図で白く抜けている大きな埋め立て部分が新港埠頭。
新港埠頭の完成は大正3年(1914)。15年の歳月がかかっています。上図は明治39年測図の版ですから、埋め立て途中ということですね。

桟橋と埠頭の違い

海底に打ち込んだ支柱に板を渡したものが桟橋(さんばし)。大桟橋はこちら、桟橋。
対してこちら埠頭(ふとう)は埋め立て、つまり海底から地面が盛り上がっているもの。桟橋とは構造的に似て非なるものです。
埠頭の“埠”は常用漢字にないので、“ふ頭”と表記されることも多いです。

ちなみに、今のマリーナで良く見る桟橋部が海面に浮いていて海中に打ち込んだ支柱に沿って潮の満ち干と共に上下するのが、浮き桟橋。小型艇ではこれが一番使い勝手が良いですね。潮の満ち干に関係無く乗り降りできるので。

で、こちらが大正11年測図、大正14年発行の版になります。

第1次世界大戦が大正3年(1914)-大正7年(1918)。
日本は戦勝国となり、大正8年(1919)のヴェルサイユ条約締結で南洋群島を国連委任統治することになります。

でこの頃の横浜港が上の図。
新港埠頭は完成しいくつもの上屋と引き込み線が見えます。活気が窺えますね。

とはいえ、大桟橋を含む第1期工事は内務省が行ったのに対し、この新港埠頭は横浜税関、すなわち大蔵省が取り仕切って進められました。レンガ造り3階建の保税倉庫もその一部。
で、これが完成まで15年もかかっていたということで、その間に民間の使い勝手の良い倉庫がいくつもできていて、こちらレンガ造りの立派な保税倉庫はあまり人気がなかったもよう。エレベーターのないこの時代に3階建てってのもねぇ。
で、今は「横浜赤レンガ倉庫」として観光施設になっており、これがまた大人気で、建設以来今が一番繁盛しているのではないか、などども言われているようです。

乾ドック

掘り割りに船を入れ、入口を閉じてポンプで海水を抜けば、船は盤木に乗った状態で上架され船底部の補修ができる。これが乾ドックです。修理や造船の為の港の施設の一つです。

上記明治39年(1906)測図の地図ですでに新港埠頭の西側に横浜船渠(せんきょ)会社の乾ドックが描かれていますが、これは明治28年(1895)に小さい方の2号ドックから工事着手。翌明治29年12月に竣工。
斜めになっている方が1号ドックで、明治29年(1896)に着工で明治31年(1898)に竣工。
斜めになっているのは、竣工後拡張工事ができるように。で、実際大正5年には約33m拡張されています。大正11年版の上記地図では長くなっているのが分かります。
現在、山下公園で展示というか公開され商業利用されている氷川丸(1930年建造)もここで建造されました。
石造りの由緒正しい乾ドックで、このあたり一体が「みなとみらい21」として再開発された今でも、1号ドックは日本丸ミュージアムとして、2号ドックはドックガーデンとして商業利用され人気の観光スポットになっています。このあたり、行く価値あり。

幻の高島埠頭

大桟橋も大正6年(1917)に拡幅工事が行われ、幅41mに。上屋も建てられているのが図からも見て取れます。

横浜ドックのさらに西側というか北側には“共立倉庫陸揚場”とか“高島駅”の文字が見えます。このあたりは江戸時代は入江で明治3年(1871)頃から埋め立てが始まっていますが、これは築港というより陸上施設を造るための埋め立てということのようです。上の地図でも東海道本線貨物支線(高島線)の高島駅という大きな貨物駅になっています。

汽笛一声で新橋-横浜間の鉄道が開通したのが明治5年(1872)ですから、築港とは別に陸上の開発もどんどん進んでいったわけで。
大正10年(1921)からは埠頭としてさらに埋め立てられ、昭和5年(1930)には国内貿易用の高島埠頭ができます。

こちら、昭和6年修正、昭和7年発行版。

港湾施設として鉄道が重要な役割を担っているのがわかります。
高島埠頭の先(海岸線が湾曲しているので北側といったらいいか)を埋め立てて作ったのが山内埠頭。昭和3年(1928)着工で昭和7年(1932)に完成ですから、これはほぼ完成の状態になりますか。この時点ですでに卸売り市場ができてるんですね。

さらにその先、大正14年(1925)に着工していた瑞穂埠頭はまだ真っ白。完成はずっと先の昭和20年(1945)になります。

一方、港の反対側、大桟橋の東に目を移すと、開港直後からあった東波止場(今の山下公園、氷川丸のあるあたり)は大正12年(1923)の関東大震災で倒壊。修理はせずに震災がれきで埋め立てられています。

高度成長期

そして、昭和20年には瑞穂埠頭も完成しますが、昭和26年(1951)から在日米軍に使用され、ノースドックと呼ばれるようになります。

横浜船渠は昭和10年に三菱重工業と合併して三菱重工横浜造船所と改名されているはずなのですが、この図ではまだ横浜船渠会社のママになってますね。

そしてこちら、昭和41年(1966)改測、42年(1967)発行版。
米軍が使うことになった瑞穂埠頭の代替として新たに埋め立てられたのが山下埠頭。昭和28年(1953)の着工から、第1バース完成後も工事は続き、全面完成をみたのが昭和38年(1963)といいますから、はいこちら、大桟橋の東にガッツリできてますね。

昭和41年ということは、ワタクシまだ11才。
思えばこの頃、世の中大きく変化していきます。あんなことも、こんなことも。

時代は巡る

海外渡航には客船あるいは貨客船に乗っていくしかなかった頃の“港”は異国情緒溢れるロマンチックなものだったのでしょうが、人の移動が船から飛行機にとって変わられると“港”は貨物を扱う作業員の働く場所となるわけで。
その貨物もコンテナ輸送が主流になっていき、港の姿は大きく変わっていきます。

山下埠頭のさらに東、本牧埠頭が昭和38年(1963)着工、昭和45年(1970)完成。でかいです。
沖合の大黒埠頭は昭和46年(1971)着工。平成2年(1990)完成。巨大なコンテナ埠頭です。
明治期に造成された新港埠頭と比べてみてください。

それらを繋ぐ横浜ベイブリッジも昭和55年(1980)着工。平成元年(1989)上層部の首都高湾岸線開通。コンテナの輸送は鉄道ではなくトラックになったということ。
平成16年(2004)には下層部の国道357号線も開通します。

逆に、貨物線駅のあった高島埠頭から横浜ドックにかけては、「みなとみらい21」として昭和58年(1983)から再開発が進みます。
山内埠頭は今でも残っていますが、高島埠頭は地名として残っているのみ。
高島埠頭ってどんなだったのか。
こちら「横濱80’s」というブログに詳しいのでご紹介しておきます。

上記昭和59年版では、横浜ドックの建屋は無くなっているようですが、埋め立てはまだ始まっていません。が、下の平成5年(1993)修正版では、みなとみらい21地区の埋め立ても終わっています。

今では大桟橋や新港埠頭の巨大な旅客船ターミナルも「みなとみらい21」の一部として観光地化しています。
異国情緒溢れる港から、貨物を取り扱うだけの殺伐とした港となり。さらに一周回って再びロマンの溢れる港になったということか。

上の図では、本牧の先に南本牧埠頭の工事も始まっています。
これらは巨大なコンテナヤードですが、ベイブリッジの下を通れない超大型の客船はこちらに着けるしかなく、大黒、本牧もそうした需要に対応すべくさらなる改修が続いているようです。


と、そんな横浜港のど真ん中。みなとみらい21の臨港パーク面前で行われる「第37回横浜港ボート天国ディンギーヨットレース」。こんな歴史を頭に入れて港を眺めるのもまた一興かと思い、まとめてみました。