南洋庁 パラオ

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委任統治領 南洋群島を統括する南洋庁本庁は、今回の「日本-パラオ 親善ヨットレース」のフィニッシュ地点にもなっている、パラオのコロール島におかれました。
当時の南洋群島は東西2500マイル以上に及ぶ広い海域で、そこに点在する623の島々を統括するものです。

日本統治時代は、南洋興発(株)による製糖業を中心に経済は栄え、多くの日本人が移り住み。学校や病院、それらを繋ぐ道路ができ、近代化が進みます。
……とよく言われますが、これがそうそう簡単なことではなかったようで、

この記事は、昭和8年、時事新報社の記者、松村金助が書いたもの。

いくら熱帯雨林といえ、種を蒔けばワサワサ実って収穫できる、って簡単な話じゃないんですね。
いやいや、大変だったろうなぁ。

それでも人は南の島々へ夢を求めます。このあたりも、分かります、その気持ち。


日本人は日本統治前から住んでいたようで、
有名なのが、土佐出身の実業家、森小弁(もり こべん)。
1892年(明治25年)にスペイン領だったチューク諸島に定住します。

これまた、同じカロリン諸島でもパラオからはかなり離れてますけど。

現地で事業を始め、酋長の娘と結婚し、後にはご自身が酋長になる。
今ではその子孫は3000人以上といわれ、ひ孫のマニー・モリ(Emanuel “Manny” Mori)はミクロネシア連邦の大統領を務めます。

いやまあ、すごい人がいるもんで。
日本からブラジルへの移民が認められたのが1892年。正式に移民が始まったのが1908年といいますから、その前だもんなぁ。

ちなみに、『酋長の娘』という歌では、「赤道直下マーシャル群島」と歌われていますが、森子弁が住んだのはチュークですから当時のトラック諸島で、日本統治時代には春島と呼ばれたウエノ(Weno)島だそうな。
マーシャル群島じゃないですね。

さらにちなみに、日本の委任統治となった島々を南洋群島というんだそうで。南洋諸島というと日本の南の島々を広くさす。
南洋群島と南洋諸島
と、使い分けをしている場合が多いようです。

また、上の松村金助の記事では、南洋群島を「裏南洋」。西欧人が東インドと呼んでいた今の東南アジアの島々を「表南洋」としています。

ワタクシ、表南洋のマレーシアに約10年住んでいたもので、なんですか、南洋の血が騒ぎますです。


当時は、横浜-パラオはもちろんフネで、約7日間。これが、「ブラジルに比べれば近い」というのが当時の感覚だったようで。
確かに、当時の7日間の船旅は、なかなか楽しかったかも。

この頃の貨客船は、趣がありますなぁ。

1930年(昭和5年)に竣工した〈氷川丸〉がこちら。

南洋航路では使われなかったようですが。
今も、横浜の山下公園前で、博物館船として公開されています。

で、我々は今、ヨットで南洋を目指そうとしているわけで……。

[palau-10 by taka]