嘉永6年6月3日
嘉永6年6月3日(1853/7/8)、浦賀沖に黒船が来航します。
写真は、今の浦賀湾。
奥深い入り江です。
東岸(写真右側)にある東叶神社の裏山に登るとこんな感じ。
対岸に房総半島も見えます。 戦国時代末期には 、安房里見氏からの攻撃に備えてここに浦賀城が築城されました。
そして、ここから見下ろすこの海面に、ペリー提督率いる米海軍 東インド艦隊──黒船が停泊したそうな。
我々ヨット乗りからすると、その前1851年にロンドン(英国)で開催された「第1回万国博覧会」での記念行事「ワイト島一周ヨットレース」がアメリカズカップの起源になったという歴史も重要ですね。
つまり、世界では万博やヨットレースが開催されている時代に、我が国では鎖国が続いていたというわけで。
まあ、その米国でも、この後南北戦争が勃発するわけですが……。
浦賀は江戸湾の入口にあり、海運の要衝として栄えていたそうな。
当時の和式灯台(浦賀燈明堂)が復原され、浦賀湾の西岸にあります。
ということは、江戸時代には、普通に夜間航海もしていたということか。
そして、この時点での横浜は、戸数わずか100戸ほどの寒村、横浜村だったわけですが……。
江戸時代の日本の海運は想像以上に盛んだったようで。日本海を航く北前船(きたまえぶね)は有名ですが、太平洋側では大阪と江戸を結ぶ菱垣廻船(ひがきかいせん)が運航しており……いやいや、今でもヨットで大阪~江戸の距離を走るのはけっこう大変なんで、 いったいどんな船が使われていたのか?
ということでちょっと調べてみたところ、
江戸時代の千石船(弁財船)は全長29メートルぐらいというから、約96ft。
何トンとか言われてもピンと来ないけれど、全長をftで表した方が我々ヨット乗りにはイメージしやすいですね。
96ftの帆船って、かなりでかいです。今のヨットでいえばスーパーマキシサイズ。
性能もかなり良かったようです。
新酒等をいかに早く江戸へ運ぶかを競っていて、安政6年(1859年)には、大阪-浦賀間を50時間という記録を出したんだそうな。
平均7ノットってことは、今の40ftのレース艇とさほど変わりません。すごい。
でも、当時はエンジンなんかなかったわけで。逆に、この大きな図体で狭い浦賀湾の中を取り回すの結構難しそう。
ということで、江戸時代の日本の帆船も結構なものだったみたいですが。
では、そこに現れて度肝を抜かせたという、アメリカ海軍東インド艦隊はどんな船だったのかというと……。これがまた……。 次号に続く。
[hama-02 / taka]