スパイス諸島へ ルーツを探る②

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レメンゲサウ大統領が訪日し、日本の報道でパラオの名をちょくちょく耳にする今日この頃。

12月29日に横浜をスタートしてパラオを目指す「日本-パラオ親善ヨットレース」の日パラ通信としては、改めてパラオの歴史に戻ります。


16世紀(1500年代)、ヨーロッパの人々は、クローブ、ナツメグなどの香辛料を求めてスパイス諸島(spice islands)を目指します。

これは、今のインドネシア、モルッカ諸島(Moluccas)あるいはマルク諸島(Maluku)と呼ばれるあたりのことで、ヨーロッパ人が求める香辛料はこの辺りの島々でしか育たなかったんだそうな。
マレーシアのマラッカ(Melaka)はまた別の街です。名前は似てますが。
こちらはイスラム商人による、香辛料貿易の東西中継港として重要な街だったそうな。

15世紀はオスマン帝国の全盛期で、陸路の貿易はイスラム商人に押さえられており、ヨーロッパの西の外れにあるスペインやポルトガルとしては、海路でスパイス諸島を目指そうではないか、となったわけ。

こちらは今のスパイス諸島。
ヨット(SV)〈Delos〉の航海記で、スパイス諸島(南のバンダ諸島)に着いたところ。この後北上し、モルッカ諸島の中心地アンボン(Ambon)へ。と、なんか楽しそうですが、
15世紀の航海は、それはそれは大変で……。
ポルトガルは、アフリカ大陸西岸を南下し、喜望峰を越えてインド洋経由で、スパイス諸島へ到達します。

対するスペインは西へ。
目の前の海(大西洋)を渡ればそこはアジア。スパイス諸島もすぐそこと考え、マゼランに艦隊を託します。
5隻の艦隊は、1519年8月10日、スペイン、セビリアを出港。

ところがこれが想像していた地形と全く異なり……って、今なら広い太平洋があるのは分かっているのですが……。反乱やら黙って帰っちゃう船ありで、マゼラン艦隊の航海は壮絶なものに。

それでもなんとかスパイス諸島にたどり着きますが、その帰り、1522年5月6日。旗艦だった〈Trinidad〉が、2つの小島を目視したという記録があり、これがパラオの主島コロール(koror)島の南西180マイルにあるSonsorol島であろうと思われます。
上の動画の6分10秒位の点線の部分。

そもそも、マゼラン艦隊の旗艦といっても、マゼラン(Fernão de Magalhães)自身はスパイス諸島に着く前、フィリピン滞在中に住民と戦闘になり、1521年4月27日に死亡しています。
その後、フアン・セバスティアン・エルカーノ(Juan Sebastián Elcano)が指揮をとる〈Victoria〉がただ1隻インド洋経由でスペインのサンルカール・デ・バラメーダ(Sanlúcar de Barrameda)に戻り世界一周を達成します。

一方、〈Trinidad〉はゴンサーロ・ゴメス(Gonzalo Gomez)が指揮をとり、スパイス諸島の一つ、Tidore島で修理を終え、再び太平洋を東へ戻りスペインに帰ろうとしますがそのときにSonsorol島を目視したということのようです。
そもそもが、スパイス諸島への西周りのルート(近道だと思った)を開拓しようとしていたわけで、当然といえば当然。
他の記事を読むと、北緯42度か43度まで北上して偏西風を掴もうとしたという記述もあるのですが。»Click

結局、再度の太平洋横断は諦めてスパイス諸島に引き返したところで、ポルトガルに拿捕されます。

一方、〈Victoria〉で無事にスペインに帰りついた18人の内の1人、アントニオ・ピガフェッタ(Antonio Pigafetta)が毎日日記を付けており、こちらは些細な記録が残っています。
そう、ここで感じるのは、ポリネシアの古式航法と、こちら西欧の古典的航法の一番の違いは、筆記用具のあるなしなんじゃないかな、というところ。


帆走カヌーの記事で、ポリネシアの古式航法について書きました。
航海計器は使わず、星や雲、波や生物を見ての航海術。

で、16世紀、大航海時代初期の西欧人の古典的航法も、方位磁石(コンパス)こそあれ、海図は無く、時計は砂時計だったというので、天文航法といっても単に星や太陽を目安に走っていただけだったんだろうし。これって、ポリネシアの古式航法とたいしてかわらないじゃないか、と思えてきて。

じゃあ何が違うかというと、筆記用具があって文字で些細な記録を残せたか残せなかったか、じゃないかと。
これが次の航海に繋り、天文学的な考察も進み、後の航海術、-推測航法、-地文航法、-天文航法として完成していったのではないか、と思うわけです。

で、それが、今ではGPSを使った電波航法にすべて置き換えられ、古典航法になってしまった、と。


エルカーノは1525年に再び西周りのルートをとりますが、途中で死亡。
以降スペインの試みはいずれも失敗に終わります。

次に世界一周を達成したのが、50年以上経った、1579年。
イングランドのフランシス・ドレイク(Francis Drake)率いる〈GOLDEN HIND〉以下5隻の船団は、68日かけて太平洋を渡り、最初に見つけた島がパラオだったもよう。


このとき、現地人と貿易をしたという記録があります。
上陸したとは書いてないですね。多くのカヌーが寄ってきて交易をした、と。
そのとき、トラブルになって、20人の現地人が殺された、なんて記述もあります。

そもそも、このフランシス・ドレイクは、スペインの植民地や船を襲って財宝を奪う海賊で。海賊といっても、イギリス女王が認めたもので私掠船(privateer)、後の海軍と言ったらいいのか。最後はサーの称号を得るほど出世するわけですが。
……と、大航海時代の航海は、冒険というより侵略の航海でもあり、今の道徳観念からすると、弱肉強食のヤバイ時代だったわけで。

日本では、
種子島の鉄砲伝来が1543年
フランシスコ・ザビエルの来日が1549年。
と、そんな時代。

パラオは、スパイス諸島やフィリピンからちょっと離れた海にポツンと浮かぶ珊瑚礁の小島で、当時の西欧帆船では停泊しにくく、侵略者達にはあまり興味を持たれなかったのが幸いしたのかもしれません。

また、
マゼランもドレイクも、いずれもポリネシアの有人の島にかすりもせずに太平洋を渡っているところが、また、不思議というか運命というか。

[parau-06 by taka]