鎖国-開国
1853年(嘉永6年)、黒船来航。
翌1854年(嘉永7年/安政元年)、二度目の黒船来航で「日米和親条約(神奈川条約)」が締結され、下田と函館を開港。
これは、その名の通り「和親」の条約で、貿易はまた別の話。
幕末のこのあたりのお話はドラマや映画になっていますし、史実もネットで動画がいろいろ出ていて面白いです。表があれば裏がありと、なにやらかなり複雑なお話で、様々な解釈がありまして……。
1858年7月29日(安政5年6月19日)の「日米修好通商条約」で貿易も解禁され、1859年7月1日(安政6年6月2日)に横浜が開港。
ここで、200年以上続いた鎖国が完全に終わる、と。
その横浜が、今回の「日本-パラオ 親善ヨットレース」のスタート地点となるのであります。
そもそも、なんでまた鎖国していたのか?
時代はずっと遡って、鉄砲伝来が16世紀の1543年とされ、この頃はポルトガルとスペインが大航海時代の主役でした。日本を含む東インドは主にポルトガルのものとされており、フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)もスペイン人ですが、ポルトガル王の命で派遣されてきたもよう。
この頃のキリスト教徒(カトリック)の布教にかける熱意というか使命というか、その行動は異教徒からみれば異常ともいえるもので、あちこちの新世界で揉めています。
1522年、フェルディナンド・マゼラン(Fernão de Magalhães)が亡くなったのも、目的地であるスパイス諸島目前のフィリピンでやたらと布教活動に入れ込んだあげく、これに反発した地元の王ラプ=ラプ(Lapu-Lapu)の反発をかい争いとなった末のお話で。
インカ帝国では、スペインのフランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro)が皇帝アタワルパ(Atahualpa)にキリスト教への改宗を迫ったあげく、受け入れられなかったがために処刑。これが、1533年。
と、武力をちらつかせた布教でかなり無茶をしているわけですが、西欧の本国でも既存のキリスト教の権威主義的な拡大に懐疑的な人達が異を唱え始めており、マルチン・ルター(Martin Luther)の宗教改革が1517年から。以降、各地でプロテスタントが台頭し、争いは17世紀に入ってヨーロッパ中を巻き込む30年戦争となるわけで……。
大航海時代のできごとに、宗教的な背景への言及は避けられないもよう。
そんな中、ザビエルの来日が1549年。
以降、日本でのキリスト教(カトリック)の布教を推し進めるわけですが、1587年には豊臣秀吉が「バテレン追放令」を出します。
バテレン(伴天連)とはカトリックの司祭(神父)のこと。スペイン語でpadre(父親:Fatherの意)が訛ってバテレン、と。
カトリックの司祭は日本から出て行け、ということですね。
この時点ではキリスト教の信仰自体を禁じているものではなく、大名への布教を禁じたもので、さらに、牛や馬を売買して食用にしてはならぬ、ともあり、さらに、
一、大唐・南蛮・高麗へ日本人を売り遣わし候こと曲事に付き、日本において人の売り買い停止のこと。
ともあります。
つまり、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買を禁止したということ。逆にいえば、それまでは、カトリックの司祭はポルトガル商人による日本人奴隷の売買と日本国外への輸出に許可を与えていた、ということになりますね。
それはけしからん。カトリックでは、異教徒は奴隷にしても良い、ってことか。
そもそも、全知全能の神を信じるキリスト教は、天照大神を祖とする天皇を頂く我が国にとって、相容れないものだったはずだし。
以降、江戸時代に入ってキリスト教禁止令が出。1624年にスペインとの国交断絶。1639年、ポルトガル船の入港禁止。
……となりますが、
プロテスタントであるオランダとの貿易は幕末まで続けていたわけですから、「鎖国」というより「カトリック禁止政策」って感じ?
もしもこのとき、鎖国していなかったら。
キリシタン大名を束ねたポルトガル軍と、日本幕府軍との内戦となってしまって、さてどうなっていたか。
大航海時代の世界の激動に、日本も結構巻き込まれそうになっていたわけで。
……と、改元のお祝いムードで晴れやかな10連休に、126代続く皇統の誇りに、改めて思いを馳せた次第であります。
[yokohama-04 by taka]