ペリリュー島戦記

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太平洋戦争末期の1944年9月11日、米軍はペリリュー島に上陸します。

ペリリュー島は、南洋庁本庁のあったパラオ コロール島の南南西約45Km(24M)に位置する小さな島で、周囲26km。南北9km、東西3km。
ここに日本軍の飛行場があり、これを巡る日米の戦いが始まります。

米軍は海兵隊約4万8千名。
迎え撃つ日本の守備隊は約1万5百名。
僅か1/4の兵力のみならず、すでに制海権も制空権も奪われている日本軍に対しいくらでも援軍を送れる米軍の戦力は数十から数百倍ともいわれ。当初、米軍側では2日~3日で片がつくと思っていたようです。

ところが、陸軍中川州男大佐率いる第14師団歩兵第2連隊は、珊瑚礁の固い地盤を掘った坑道を縦横に張り巡らせた陣地を設け、島の住民は前もって全員コロールに疎開させ、と、全島を要塞化。持久戦に備えた戦略で待ち受けます。

当時の地図と現在のペリリュー島

最終的には玉砕するわけですが、強固な陣地に練られた戦略と粘り強い戦いぶりで、攻める米第一海兵師団もほぼ壊滅。
米軍古参兵をして「このペリリュー島の飛行場を巡る戦いが、太平洋戦争中で最悪の経験だった」(ユージーン・スレッジ『ペリリュー・沖縄戦記』)と後に語らせ、ペリリュー守備隊は「これまで出会った中では、最も優秀と思える兵士で、率いる将校も、敵の圧倒的な火力の前に無駄死にする無意味さを理解し、アメリカ軍の術中にはまらない決意に満ちていた。」( ジェームズ・H・ハラス 『ペリリュー島戦記―珊瑚礁の小島で海兵隊員が見た真実の恐怖』)と米軍からも評価されるほど。

ペリリュー戦の記録は様々な書物として残されています。
ネットでもかなり詳細に読むことができます。
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日本の守備隊は必死のゲリラ戦を展開するも、10月7日に水源となる池を奪われ、11月24日には司令部陣地の兵力弾薬も底をつき、玉砕。73日に渡る組織的な抵抗は幕を閉じます。

司令部全滅後も、他の陣地に籠っていた50名はゲリラ戦を展開。米軍倉庫を襲って食料を確保するなどし2年近く洞窟内で生きのびながら戦い続けた34名は、終戦後の1947年4月22日に米軍へ投降します。

投降に至った過程も記録が残っており、→こちらなんか詳しいです。

動画もけっこうあるのでyoutubeで検索してみてください。

戦闘に対する評価はいろいろ。
NHKスペシャルでは、「狂気の戦場 ペリリュー|忘れられた島の記録」なんて扱い方をしていますが。

大東亜戦争時の主な海戦

さらに南のアンガウル島にも、9月17日から平行して上陸戦が行われ、10月19日にはこちらも玉砕しています。

米軍側にも多大な損失を出したペリリュー戦。
この時点では、すでにサイパン、テニアンは米軍の手に落ちていたわけで、日本本土への爆撃やフィリピン奪還を考えても、米軍にとってパラオには戦略的な意味はすでに無くなっていたともされています。
それでも、守る方は、敵が諦めるまで戦い続けるしかないわけで……。

そもそもパラオは、米英との開戦前から日本の委任統治領だったわけで。
戦闘の前にはペリリュー島もアンガウル島も島民は全員パラオ本島に疎開させており、
……と考えると、日本軍にとってペリリューの戦いは、パラオを守る戦いだったともいえるわけで。


2015年4月、時の天皇皇后両陛下がパラオに戦没者慰霊の行幸啓をされています。

【両陛下パラオご訪問】ペリリュー島で慰霊碑にご供花 生還者の元日本兵らともご面会(産経ニュース

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