コロールの王子、英国へ

[palau-07]

前回、

からの続きです

スパイス諸島を巡るスペインとポルトガルの争いは、1529年のサラゴサ条約で「スパイス諸島はポルトガルが領有する」ということで決着。
……って、現地とは関係無く、本国で王様同士が勝手に決めたことですが。

代わりに、今のフィリピンはスペインが領有することになりますが、
17世紀(1600年代)に入って、フランス、オランダ、イギリスもスパイス諸島の権益を求め海を渡りやって来ます。

1600年、イギリス東インド会社設立。オランダ東インド会社が1602年。

この「東インド」という概念が、いまいちピンと来ないのですが、当時「インド」とは中東の先一帯を指す地域のことで、今の東南アジアを広く「東インド」と呼んでいたようです。スパイス諸島もその一部。極東──中国、日本も含まれるのかも。

その東インドの権益を巡って、西欧列強がしのぎを削るそんな時代です。

1623年2月23日。アンボン(Ambon)──前回の話に出てきたスパイス諸島の中心地──で起きたアンボイナ事件の結果、オランダがスパイス諸島での覇権を確立します。

詳しくは、こちらを。

この頃、日本人も結構住んでいたというのも驚きですが。なんだか殺伐とした時代ですねぇ。

日本は江戸時代で、
1615年(元和元年) 大阪夏の陣
1624年(寛永元年) スペイン船の来航禁止
1633年(寛永10年) 第一次鎖国令
1639年(寛永16年) ポルトガル船の来航禁止
で、鎖国に入り、キリスト教(カトリック)も禁止される、と、そんな時代です。


香料諸島の中心、アンボンは、地図で見ても深い入り江の良港で。
一方、パラオは外洋に浮かぶ珊瑚礁の小さな島々で、停泊上陸するのも難しく、香料が産出する訳でもなく。
おかげで、東インド会社に領有されずに済んでいたようですが、

18世紀(1700年代)初頭には、宣教師の乗るスペイン船がパラオにやってきては布教を試みるも、失敗していたもよう。
宣教師が上陸している間に船は潮に流され、取り残された宣教師が殺される、なんて事件もあったようで。

そんな中、1783年8月9日。
イギリス東インド会社所属の〈Antelope〉(全長約100ft)が、マカオへ向かう途中、荒天に遭遇。パラオのリーフで座礁します。

〈Antelope〉は、客や貨物、郵便を運ぶ定期船(packet ship)で、15人のチャイニーズを含む50人の乗員が乗っていましたが、水面ギリギリに珊瑚礁の浅瀬が続くこの海域は、帆船にとってはかなり手強かったことでしょう。

マストを倒して転覆を防いだ、なんて記述もありますが、結局、座礁。

日付や座礁地点は、記録によって多少異なるようですが。
幸い乗員は全員無事で、嵐が去った後船を引き上げ、ウロン(Ulong)島まで運び、島でキャンプしつつ船を修理することにします。

そこへ、コロール(Koror)の酋長アイブドゥール(Ibedul)が、2人の兄弟と通訳を仕向け、船長のヘンリー・ウイルソン(Henry Wilson)は、紅茶とビスケットでこれをもてなします。

通訳のソーグル(Soogle)はパラオ語とマレー語が話せ、ウイルソン船長側の言語学者トム・ローズ(Tom Rose)はマレー語と英語が話せたため、パラオ語-マレー語-英語と、2段階の通訳を入れて会話することができました。
ここで、ウイルソン船長は助けを求め、酋長に会いたいと告げます。

5日後、アイブドゥール酋長は次男リーブー(Lebuu)を伴い、300人の戦士を乗せた戦闘カヌーを仕立てて現れます。
ウイルソン船長はこれを歓迎。士官の制服、ハム、ガチョウを進呈。
酋長はこれに答えて〈Antelope〉の安全を約束、新鮮な食べ物も提供します。

酋長の目には船に積まれた西洋の品々が目新しく、これは当然ですが。対するウイルソン船長もこれに真摯に対応。
両者はなにやら意気投合、いや、ウインウインの関係か、いやいや、それ以上に信頼関係を築いたようで。

当時、アイブドゥール酋長は、Artingal地域の大酋長レクライ(Reklai)と紛争状態にありました。
Artingalとは、パラオで一番大きいBabaldaob島の東部、今のマルキョク(Melekeok)、エサール(Ngchesar)、オギワル(Ngiwal)からなる広い地域です。

ここで、銃で武装した〈Antelope〉の乗員6名が、コロール軍に加勢。
マスカット銃の威力は大きく、アイブドゥール酋長のコロール軍が勝利します。

コロールのアイブドゥール酋長にとって、ここでの勝利の意味は非常に大きな意味をもち、その後もパラオの中心がコロールだったのは、このときの戦いの結果かもしれません。


1783年11月12日。難破から3ヶ月後、〈Antelope〉は修理を終えます。
修理というより、難破した船から使えそうな部材を集め、島の木材を使って一回り小さな船を造ってしまったもよう。この頃の船乗りは、ほんとすごいなぁ。
その船を島の名から〈Oroolong〉と名付け、マカオに戻ります。

このとき、残した銃の使い方を指導するために〈Antelope〉の乗員1名を島に残し、代わりに酋長アイブドゥールの次男リーブー(Lebuu)をイギリスに向かわせます。

Prince Lee Booと呼ばれ、パラオを代表した者としてロンドンでも手厚いもてなしを受け、プリンス・リーブーもパーティーや学校での知的で上品な振る舞いでこれに答えます。

ところがロンドンについて僅か6ヶ月。なんと、天然痘で亡くなってしまいます。
享年20才。

ヨーロッパでは過去に天然痘の流行があり大勢亡くなっています。王族や、日本でも皇族や将軍でも防ぐことができない感染力をもつ病気で。
この頃にはヨーロッパの人々には免疫がついていたところに、免疫のない地域の人がやってきてはひとたまりも無く……。

悲しみの中粛々と葬儀が営まれ、プリンス・リーブーはロンドンのSt Mary’s Churchに埋葬されました。


月日は流れ、2012年のロンドン五輪。
パラオチームの入場行進でのこのパフォーマンスは、プリンス・リーブ-を模しています。
230年前に、この地、ロンドンで受けた恩恵を忘れずに。

Palau’s London 2012 Olympic Journey