グアムレース’92の悲劇から学ぶ

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9/23の記事、

で簡単にご紹介しましたが、9/20-21、9/22-23と2回に分けて「World Sailing Safty and Sea Survival Course」が開催されました。

「日本-パラオ親善ヨットレース」参加艇に求められるOSR カテゴリー1で、

【OSR 6.01.2】
艇の責任者を含む30%以上の乗員(ただし2名以上)は、レースのスタート前5年以内に、OSR6.02のトレーニング項目を実施していること。

とあり、その「トレーニング」がこちら。

日本にはインストラクターがいないため、オーストラリアからMarine SafetyWorksのGenevieve White氏を招聘。当然英語になるので通訳として、自身もこのトレーニングを過去に受けているセーラー寺尾まゆこ氏に依頼。
と、日本までの渡航費やらなにやらで経費がかかるため参加費8万円となかなかの金額ですが、実践に則した内容になっていました。単に規則に合わせるために試験に受かればいいや……というよりも、知識として経験として身に付けておくべきことばかりで、このレースに参加する乗員全員で受けておいて損は無い内容です。

セミナーというよりトレーニングですから、フル装備で海に入り、海中での姿勢や動作を実践しその意味を知り。ライフラフトも展開し実際に乗り込み、いかに乗り心地が悪いかを身に染みて実感。
ジェン先生は、「可能な限りヨットに残るべき」と言います。
たとえ水船になっていたとしても、ヨットの方がよっぽどまし。ライフラフトは、最後の望みの綱ということですね。


座学でも、「ファストネットレース」や「シドニー・ホバートレース」での遭難例から、実践的に教訓を学びます。

ここで、先生の話には出てきませんでしたが、我が国でも実際に起きた事故例を挙げておきます。

「トーヨコカップ ジャパン~グアムヨットレース ’92」で起きた〈マリンマリン〉(YOKOYAMA39)、〈たか〉(LIBETY47)の事故については、ヨット乗りなら覚えていると思いますが、その事故の詳細が記された『裁決録』が、「公益財団法人 海難審判・船舶事故調査協会」のホームページに掲載されています。
→こちら

1つの書面に、〈マリンマリン〉のケースを(第1)、〈たか〉のケースを(第2)として並記されています。
12月26日に小網代沖をスタートしグアム島を目指すというこのレースは「日本-パラオ親善ヨットレース」と同じようなコースです。事故の成り行きを改めてみておくことで「パラオレース」参加艇にとっても安全対策の一助になるかと思いまして。まずはご一読を。


〈たか〉のケースでは沈み行く艇からライフラフトで脱出-漂流したわけですが、今回の講習でもライフラフトに乗り移る際の注意はかなり詳しく解説されました。

・ラフトの装備品だけでは足りないので、飲料水などさらに持ち込むものをグラブバックに入れて用意しておく
・ラフト内では必ず船酔いするので、酔い止め薬を飲んでから移乗
・漂流するとオシッコが出なくなるので、乗り込む前に済ませる
などは特に傾聴に値すると思われます。

また、ライフラフトとは関係無く普段の個人装備として、ウエストポーチ(先生はbum bagと呼んでいた)に個人用の懐中電灯やPLBなどを入れておけというあたりも、落水時のみならずラフトでの漂流時にも役立つかと。

〈たか〉のケースについては、『KAZI』1992年4月号にもかなり詳細なレポートが掲載されています。もう手元に無い方も多いかと思うので、できればここで再掲したいところです。



一方、〈マリンマリン〉のケースではライフラフトは使っていませんが、先の「裁決録」から経過をまとめると、

12/26 1200 小網代沖スタート
12/27 1539 最初の落水
       32-22N/140-18E
      {青ヶ島の東南東45M、八丈島の南西47M}
       機走で日没まで捜索
12/28    夜明けから捜索再開
    1100 巡視船〈うらが〉に乗員1名を収容
       落水者の捜索は継続
12/29  捜索のため八丈島に寄せるも真上り
    1230 ペラにロープをからめ機走不能に
       33-18N/141-28E {八丈島の東北東81M}
    1530 みずほに曳航依頼も作業は難航
       海象悪く夜になったので、一旦作業は中止
12/30 0320 バラストキール脱落 転覆
       33-21N/142-00E{八丈島の東北東107M}
       西の風 風力8 波高約6メートル
{ }内は筆者の注釈
『裁決録』では、最初の落水が「同3時39分ごろ」となっていますが、これは午後3時39分です。

と、最初の落水から転覆沈没に至るまで、かなりの距離を移動し様々な事が起きています。
それぞれのフェーズで、どうすれば良かったのか、何ができたのか。トレーニングの教材にもなり得ます。同じ時期に同じ水域を走るわけで。

ちなみに、当時の天気図はこんな感じ。

1991年の当該日の天気図

『裁決録』には記載がありませんが、キールが脱落する前になんらかの前兆現象はあったはず。浸水が増えるとか変な音がするとか。

まあ、上記の経緯を考えれば、落水から続く焦燥感と絶望感そして疲労とでこの段階での残された乗員の心中を察するにあまりありますが。
ライフラフトを展開するわずかなチャンスはなかったのか。

今回の講習では、ライフラフトの搭載場所と固縛方法についてかなり時間を割いて解説がありました。日本では、ソフトバック入りのラフトをコンパニオンウエイの階段下に縛り付けるケースが多いのでは? でもこれだと、いざというときに展開するのはかなり難しそうです。じゃあどうするか……。と。

また、ライフラフトはヨットが沈むとき以外にも、他船(ヨットを含む)に乗り移る際、あるいはヘリで救助される際にも有効である、ということも教わりました。
確かに。

そして、日本の桜マークのライフラフト(小型船舶用膨張式救命いかだ)の規格にジェン先生はかなり否定的でしたが……。これ積むしかないので……。桜マークのラフトの種類については別項で紹介したいと思います。
特に天幕は、今回のトレーニングで使用したアルミ支柱のものよりも、膨張式の方がずっと良さそうです。

また、〈マリンマリン〉のケースでは、このような外洋ではたして曳航なんてできるのか、とも思います。

これも、『KAZI』1992年4月号に〈みずほ〉河原船長の談話が掲載されています。当時遭難現場では、西から西北西の風29.6m/s、波高9-10m。通常なら巡視船上でも”暴露甲板出入禁止”の状況で、この当時保安庁最大の巡視船である〈みずほ〉でもローリングが60度に達していたといいますから、救助作業がいかに困難だったか。こちらも一読を。

その中で船長は、
「ヨット乗りなら皆十分承知のはずなのになぜみんな{伊豆諸島の}東側に行ったのだろうか。大体寒冷前線は伊豆諸島や小笠原諸島の東側に出てから猛烈に発達するんです」
と語っています。

すいません。知りませんでした。

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