条約灯台
以前の記事で書いた「四国艦隊下関砲撃事件」(1864年)。
「馬関戦争」、「下関事件」等と呼び方が統一されていないようなので、なんだかピンとこないのですが、幕末の日本の行く末を決める大きなできごとですね。武力が支配する時代だったと……。
安政5年(1858)、「日米修好通商条約(Treaty of Amity and Commerce Between the United States and the Empire of Japan)」に続けて、日蘭修好通商条約、日露修好通商条約、日英修好通商条約、日仏修好通商条約と列強各国との通商条約を締結した江戸幕府。
これを「安政五カ国条約」と呼びます。
これで開国し横浜が開港するわけですが……、攘夷派はどうにもガマンならず。
横浜港なんか再び鎖港すべし、などと言い出す始末で。
そもそも孝明天皇ご自身が攘夷派筆頭だったようで……。
文久3年(1863/6/24)幕府は開港場の閉鎖を通達するも、列強は聞く耳をもたず。
同年6/25、長州藩は馬関海峡(今の関門海峡)を封鎖し、航行中の米、仏、蘭の艦船に砲撃を加えます。「安政五カ国条約」を結んでいるにもかかわらず、瀬戸内海に外国船は入れない、と。これはやっぱり無理がありますなぁ。
8月には薩英戦争、10月には横浜でフランス士官が攘夷派浪士に殺害されるなどの事件も起き、なんだかもう開国どころではない感じ。
幕府は横浜鎖港の交渉に遣仏使節団をしたて、フランス軍艦〈ル・モンジュ〉に乗艦させてもらい、12/29に横浜を出立。……お、「日本-パラオ親善ヨットレース」のスタートと同じ日付だ。
こちら〈ル・モンジュ〉は、進路を西へ。上海、インドを経てスエズに入港します。
スエズ運河の建設は1858年から始まっていますが、まだ完成には至らず。
ということで、一行はここから陸路でカイロへ。そこから船でマルセイユに着いたのが4/15。パリには4/21に到着。長旅です。でもなんか行ってみたいなぁ。
〈ル・モンジュ〉とはどんな船だったのか、ちょっと調べたのですが詳しい情報にはたどりつけませんでした。
パリでの「横浜の鎖港」に関する交渉はあっさりと失敗に終わり、1864/6/20、「パリ約定」を結びますが、これは先の長州藩によるフランス船への砲撃に対する賠償金と、下関海峡の自由航行、関税率低減、というもので、いったい何をしにわざわざパリまで行ったのかわからないような内容で。
一行が日本へ戻った7/24に幕府は批准を拒否。なんかもう、ガキの使いか、って感じで、使節団一行は蟄居を命じられます。
あれ……帰りの航程は約1ヶ月って、やけに早いですね。
スエズ-横浜は約8,000マイルありますから、今のヨットだとデイラン200マイルとしてもここだけで40日かかる計算で……。蒸気艦で15ノット平均出たとして、22日か。加えて、パリ-スエズを10日って感じで、行けるか。
そんな文久4年8月5日(1864/9/5)、英国が仏、蘭、米に呼びかけ17隻の連合艦隊を組んで、長州藩の砲台を徹底的に砲撃。陸戦隊がこれを占拠し、破壊する、とこれが「四国艦隊下関砲撃事件」。事件というより戦争ですよね。
結果、長州藩は完敗。
敗戦の責任を何故が幕府がとらされ、列強4国に対して膨大な賠償金を支払うハメになります。
慶応2年5月13日(1866/6/25)、米、英、仏、蘭の4ヶ国と交わした「安政五カ国条約」の「改税約書」では、この賠償金の減免を条件に、日本にとって不利な輸入関税に加え、
第11条
日本政府ハ外国交易ノタメ開キタル各港最寄船ノ出入安全ノタメ灯明台、浮木、瀬印木ヲ備フベシ
つまり、外国船の航行に必要な灯台を造ること、という要求を課せられます。
これが、1869年に初点灯する観音埼灯台をはじめ、
野島埼灯台、樫野埼灯台、神子元島灯台、剱埼灯台、伊王島灯台、佐多岬灯台、潮岬灯台の8つ。
加えて、1867年にはイギリスと結んだ大坂条約で、
江埼灯台、六連島灯台、部埼灯台、友ヶ島灯台、和田岬灯台の5つ。
合わせて13の洋式灯台が次々に完成。これを「条約灯台」と呼んでいます。
我々ヨット乗りにとって馴染み深い神子元島灯台もこの一つ。
明治3年11月11日(1871/1/1)に竣工。
伊豆の石を切り出して組み上げた……って、あんな岩場に、よくまああんな立派な灯台を造ったなと思いますが。
補強はされているようですが、灯台の筐体自体は建設当時のままだそうです。
ここに至る歴史を改めてふりかえると、「開港して灯台整備しなければ武力攻撃する」という列強からの脅しなわけで。スペインがインカ帝国に対して行った征服からすればだいぶましではありますが。まあ、ひどい時代です。
実際、「四国艦隊下関砲撃事件」での連合艦隊の戦力はすごいです。
英国海軍が、蒸気スクリュー戦列艦の〈HMS Conqueror〉(ガンデッキ長:205ft)、蒸気スクリューフリゲート〈HMS Euryalus〉(全長:212ft)以下9隻。加えて、フランス3隻、オランダ4隻、アメリカ1隻、合計17隻。すべて蒸気艦。
ペリーの黒船は外輪船でしたが、この頃はほとんどスクリュープロペラになっています。つまり、外から狙われやすい外輪が無くなったということ。
あらためて考えてみると、蒸気船ができたことによって、ペリーも東京湾奥深くまで入ってこれたわけで。じゃないと、風が無くなり身動き取れなくなったところで囲まれたら……。黒船といっても木造で、ピッチで黒く塗ってあっただけですから。身動きとれないところで火矢で攻めるなんてことも可能かと。
世界初の装甲艦はフランス海軍の〈Gloire〉で1860年に就航。船体が鋼製というより、喫水から上を厚さ119 mmの錬鉄で覆っていたものだそうな。
すぐに英国海軍も装甲艦〈HMS Warrior〉を進水させ……と、ここから大航海時代第2幕が始まるといってもいいのかも。
そして日本も、明治に入ってこの覇権主義の世界に加わることとなり、海軍力を強化。追いつき追い越すことになっていくわけですが……。
[yokohama-08 by taka]