メリケン波止場

[yokohama-09]

こちら、葛飾北斎(1760生-1849没)の『富嶽三十六景』から、『神奈川沖浪裏』(かながわおきなみうら)。

この「神奈川」は前にも出てきた神奈川宿のこと。
『富嶽三十六景』は文政6年(1823)から天保4年(1833)にかけての作といいますから、吉田新田はできていたものの、横浜はまだ半農半漁の寒村だった頃ですね。
つまり、今の横浜沖……というか東京湾の波ということ。

この波の大きさから、てっきり相模湾だと思ってたんですけど。東京湾です。
確かに、東京湾でも吹くと結構すごいです。

横浜の開港後も、港としては小さな波止場が2本あるだけで、特に冬場の北から北東の風には無防備で、

高波が押し寄せてくると、たちまち怒れる海と化し、船の運航を危険におとしいれる

と、フランス艦隊の乗員が記していたそうな。

対して、昔からあった神奈川湊は南東向きで、天然の良港だったということでしょう。
ま、この北斎の絵だと、波の向きからして南風みたいですけど。

あれ? 横浜から富士山って見えたっけ?

写真は、「日本-パラオ 親善ヨットレース」の横浜スタートでのベースとなる予定の横浜ベイサイドマリーナです。おお、横浜の海から、富士山が見えますね。


そんな横浜に、外航船が直接係留できる桟橋ができたのが、明治27年(1894)。
海底に巨大な木ねじみたいな鉄の杭をねじ込んで桁を渡した鉄桟橋で、床面は厚さ10cmのヒノキ張り。鉄橋部分の長さは約450m、幅は19mと立派なものです。

横浜の開港自体は江戸時代の安政6年(1859)で、陸上部分(関内)の街作りは進み鉄道も開通し賑わいを見せていたのに、、築港の方は予算不足で後回しにされていました。
英陸軍大佐ヘンリー・スペンサー・パーマー(Henry Spencer Palmer)の設計、監督のもと工事が始まったのが明治22年(1889)。……ってことは開港から30年も経っていたわけです。

なんでこんなに時間がかかったのか。
お金がなかったから……なんですが、

「四国艦隊下関砲撃事件」で、英、仏、蘭、米に支払った賠償金のうち、米国だけが返してくれることになり、それも、元金に20年分の利息も合わせて、日本円にして135万円。今の価値にして約50億円といいますから大金です。
これを築港にあてようとなったわけ。

そんな大金、なんでまた返してくれることになったのか……というあたりは、『横浜港の七不思議』(田中祥夫:著)に詳しいのですが、、、

簡単に言えば”アメリカの正義感”と言ったら良いでしょうか。

上の記事にも書いたように、賠償金を減免して貰おうと、日本にとって不利な輸入関税や灯台の建造を約束されられ履行したのですが、それでも結局減額はしてもらえず、日本側は300万ドル全額を支払っています。今の価値にすると100億円以上といわれる法外な額です。

英国主導で話を進め、英国がまとめて受け取り、仏、蘭、米と4ヶ国で分けたわけですが、当時の駐日米国公使ロバート・プリュイン(Robert Hewson Pruyn)は、この賠償金を、

強者ノ手ヲ以テ弱者ヨリ取リタルモノ

 とし、

決シテ此ノ不正ノ金ヲ国庫ニ修ムマジ

 といって、国務省で保管します。

もちろん、米議会では「貰っとけばいいじゃん」という意見も出るわけで、「いやいや、返すにしても全額は返さなくていいんじゃね」とか「返すなら両国の若者に語学教育するなどの使い道に限定すれば」など、様々な意見が出たようでなかなかまとまらず、最後の最後はグラント大統領が返還を強く支持したのが効いたようで、明治14年(1881)の米上院を通過。1883年に成立します。

ユリシーズ・グラント(Ulysses Simpson Grant:1822-1885)は、米国の第18代大統領(1869/3/4-1877/3/4)。

「四国艦隊下関砲撃事件」のあった1864年はリンカーン大統領の時代ですが、南北戦争が1861年-1865年と、米国としては下関どころの騒ぎじゃなく。

グラント大統領は、南北戦争では勝利した北軍の将軍として名をあげるも、1869年に大統領に就任してからはスキャンダルがらみで評判はかんばしくなく。しかし、下関の賠償金返還での議論の中では「返還支持」。最後は、2期つとめた大統領を退任した後ですが、新聞紙上で「合衆国政府が強奪した金」とまで語る記事が掲載され、それが議会での審議に影響をあたえたのではないか、と『横浜港の七不思議』にはあります。

この本を読む限り、グラント大統領ってなんか良い人なんですけど、歴代大統領の中では最低レベルとの評価が定着しているようで……。

歴史の裏表は難しいです。


ワタクシ思うに、、
15世紀(1400年代)の終わりにスペイン、ポルトガルから始まった大航海時代。帆船で大洋を渡り、世界の隅々まで開拓というか征服した時代。
そこに、蘭、英、仏が加わり、東インドの利権も激しく争ってきたわけで。1623年のアンボイナ事件はここでもご紹介しました。

ポルトガルとスペインを追い出して鎖国した日本ですが、オランダとは17世紀から公益を続けており、鎖国外。いや、このとき英国も貿易を認められていたのに、自分から平戸の商館を閉じています。これは、上記アンボイナ事件もからんだ英蘭の対立関係も影響しているようです。

一方米国は、英国の植民地から独立。
独立宣言(United States Declaration of Independence)は1776年7月4日ですが、英国はそれを認めたわけではなく、ここから本格的な独立戦争となります。
終戦は1784年。アメリカ合衆国憲法の制定、発行が1788年。翌1789年にジョージ・ワシントンが初代大統領に就任します。

独立戦争で米国側についたフランスでは、1789年にフランス革命。1804年にはナポレオンが皇帝になり、スペインとの連合艦隊を組んで英国と戦ったトラファルガー沖海戦が1806年。

と、英国とフランスは元々仲が悪く、米国には独立されてしまった英国ですが、1760年代からはじまった産業革命も相まって、世界の覇権は英国の手にあり。世界初の万国博覧会が英国で開催されたのが1851年。
その記念レースに、独立間もない米国が、〈アメリカ〉号で参戦し圧勝。その工業技術を見せつけるという大きな意味を持っていたわけで。

と、改めてみると、英、仏、蘭、と比べ、自由を求めて移民した地で独立を果たした米国のそれも共和党にとっての国家の正義という意味が違うのかな、と。

サッカーとアメリカンフットボールの違いといったらいいのか?


こちら、写真左下が今の大さん橋。
国際客船ターミナルになっていて、屋上は巨大な海上公園という感じで24時間オープンしています。

桟橋ではなく海底から地面が立ち上がっている埠頭です。
「大さん橋」と漢字ひらがな交じりで表すのが正式なんだそうな。今のは桟橋じゃないんで。

「メリケン波止場」とも呼ばれましたが、アメリカから返還して貰ったお金で造ったから……というわけではないもよう。

[yokohama-09 by taka]