神社丸物語 その2 鎖国の漂流民

前回、

の続きです。

江戸時代後期〈神社丸〉が遭難しパラオに漂着。これが日本とパラオの最初の接点ということになるわけですが。
ではその文政3年(1820)のパラオはどんな状況だったのか

前回の「パラオレース2019」開催前に、レースの目的地であるパラオの紹介ということでこちら「日パラ通信」にいくつか記事を書いています。

この↑記事では、1783年8月9日……つまり〈神社丸〉がパラオに漂着する37年も前に“イギリス東インド会社所属の帆船〈Antelope〉(全長約100ft)が、マカオへ向かう途中荒天に遭遇しパラオのリーフで座礁した”とあります。
船を修理して再び島を出るまでの約3ヶ月間、乗組員は島でキャンプしつつ島民と親交を深めます。ちょうどその頃、島では部族間の闘争があり、〈Antelope〉の乗員はコロール軍に加勢。これがまた西洋の最新兵器があるわけで戦果は上々。友好関係はより密なものになります。
修理を終えマカオに戻る際には、酋長アイブドゥールの次男リーブー(Lebuu)が乗り込むことになり、そのまま英国へ留学しています。

その37年後に〈神社丸〉がパラオに漂着したわけで。つまり、当時のパラオの島民はすでに西洋文明に触れていたのです。
しかし、前回紹介した〈神社丸〉の漂流を紹介したビデオによれば、日本に戻った〈神社丸〉の乗員は西洋文明とは無縁の未開ながら楽園のようなパラオの生活を報告しています。
〈Antelope〉の乗員1名は島に残ったというし、銃をはじめとした西洋文明の痕跡はすでにあったはずなのに。

なぜか。

鎖国制度の元では日本人の海外渡航も再入国も禁じられていたわけで。
となると、漂流者だといっても、それが禁を犯して海外渡航に及びキリシタンとなって日本に舞い戻りなにか企んでいるのか、本当に遭難してはからずも外地に上陸し苦労の末に故郷の土を踏んだのか、日本側の役人からすれば厳しい取り調べをしなければ吟味できないわけで。
取り調べを受ける側としては、不利になるようなことは語らなかった可能性も十分にあります。

〈神社丸〉のケースに限らず当時の船員は自ら手記をしたためるような素養のある人はほとんどおらず。江戸時代の日本の“漂流記”は、生還した船員が奉行所で取り調べを受けた際の今でいう『調書』を元に第三者が書き表したものがほとんどです。

と、江戸時代の“漂流”には、鎖国制度が大きく関係してくるのです。

世界の海の歴史を改めて年表にまとめてみます。

15世紀(1400年代)の終わり、コロンブス(スペイン)、バスコダ・ガマ(ポルトガル)の航海から始まり、16世紀(1500年代)に入ってマゼランが1519年にセビリア(スペイン)を出航。
スペインとしてはどうあっても西周りでスパイス諸島(上図の赤丸内)を目指そうとしたわけで。
と、このあたりは中学の歴史で教わる……のかと思ったら高校か?

こちら「日パラ通信」でも触れていますが、

マゼラン自身は1521年、今のフィリピンまでたどり着いたところでキリスト教の布教に熱を入れすぎ、島のスルタン(王)の反発を受けて戦いとなり戦死……というか殺されています。マゼラン自身は世界一周していないのです。

スパイス諸島までの航路を開拓するのが任務だったはずなのに。そのすぐ目の前でなんでまた布教に熱をいれてしまったのか。

16世紀は大航海時代と同時に宗教改革の時代でもあります。
大航海時代に開拓された海上航路で、船に乗った宣教師が世界のあちこちへキリスト教を布教していったということで。

日本でも、
天文18年(1549)にフランシスコ・ザビエルが来日。
これも船に乗ってやってきたわけで。

「ポルトガルの宣教師フランシスコ・ザビエルが日本にやってきて……」って習ったような気もするのですが、ザビエルはスペイン人……というかバスク人。
バスクはスペインの北部、フランスとの国境付近にある地域で、昔から捕鯨が盛んだったり船乗りを多く輩出しています。なので、ザビエルも船に乗って地球の裏側まで布教に行くことにためらいがなかったのかも。
マゼラン艦隊でマゼランの死後艦隊を率いてスペインまで帰りついた──つまり初めて世界一周したフアン・セバスティアン・エルカーノもバスク人。
近年でも、49er級ゴールドメダリストにして「ボルボ・オーシャンレース」でも活躍したイケール・マルチネスやシャビー・フェルナンデスもバスク出身です。
加えてなんだか独特の郷土愛が強いようで。
サイクルロードレースでも、エウスカルテルというバスク(エウスカル)の電電公社みたいなところがスポンサーとなっているチームが有名で。2013年に解散してしまいましたが、当時はツール・ド・フランスでもバスクの山岳コースになると熱狂的なオレンジ色の応援団が集結し発炎筒を炊いたりしてイッちゃってました。ちょっとガラが悪い。
プロのサッカーチームでも、所属選手は全員バスク人なんてこだわっている強豪があったりして。

その“バスク出身”であるフランシスコ・ザビエルは、宗教改革下に生まれたイエズス会の創設者の一人で、かなり大物。あの髪型がやけに記憶に残っていますが。日本に来たころは髪の毛全部あったみたいですよ。まあ、当時の日本人も外国人から見ればそうとう変な髪型だったわけですが。

で、ポルトガルの王様がキリスト教布教のためにインドのゴアに派遣したわけですが。当時ボルトガルの海外拠点の1つであったマラッカ(マレーシア)で日本人のヤジローに会います。

下の写真は、今もマラッカに残るポルトガルの砦跡。自分で撮りました。

ヤジローというのは謎の日本人なんですが、なんでも鹿児島で人を殺し、逃げるようにポルトガル船に乗り込みマラッカに住んでいた男、ということのようです。

種子島にポルトガル船が漂着したのが天文12年(1543)。
これが「鉄砲伝来」なんですが、日本にとっては初めてのポルトガル(南蛮)との遭遇ということ。

それ以前の海外との交流は、、、
えーと、遣隋使が推古8年(600)からというから、始まりはたいそう古いんだけど。南蛮貿易が始まるのが、この天文12年(1543)からということになりますね。
あ、鉄砲伝来はポルトガル船じゃなくて倭寇の船みたいですね。そこにポルトガル人も乗っていた、と。

倭寇って「日本の海賊」と習ったと思うけど、後期の倭寇は多国籍海賊組織だったもよう。
ちょっと憧れますね。もっと調べてみよう。

話がずれました。
南蛮との初遭遇「鉄砲伝来」の天文12年(1543)からわずかの間に日本は南蛮との行き来が広がり、で、ヤジロー現れの、ザビエル来日となったわけ。
ザビエルは漂着したのではなく、布教の為に船で日本に渡ってきたわけです。ヤジローも伴って。

ザビエルが日本に滞在していたのは2年3ヶ月ですが、4人の日本人青年を連れてインドのゴアに戻ります。
ザビエル自身はそこから明で布教をすべく上川島(じょうせんとう:今の中華人民共和国広東省)に上陸しますが入境はなかなか許されず。その地で病死します。
一方、ザビエルと一緒に日本を発った4人の日本人青年の1人ベルナルドは、リスボン(ポルトガル)からローマまで行ってます。日本人初のヨーロッパ留学生ということになりますが、リスボンで病死しています。

ベルナルドに関して、日本側にはなんの記録も残されていないようで日本語の氏名がわかりません。
つまり、親にないしょで日本を後にしたのか。
日本ではザビエルと行動を共にしていたようなので、親は当然それは分かったいたはずなんだけど。それもないしょか。

「ザビエルが描かれた絵画」がテーマの動画なんですが。面白いので貼り付けておきます。

 


 

一方パラオでは。
1579年に英国のフランシス・ドレイク(イングランド)率いる〈GOLDEN HIND〉以下5隻の船団が世界一周の途上パラオを発見、というか立ち寄った程度のようですが。こちら、同じキリスト教でもプロテスタント。ドレイクの父親はプロテスタントの牧師だったそうな。
で、キリスト教の布教には興味がなかったもよう。

18世紀(1700年代)に入って、スペイン船に乗った宣教師がキリスト教の布教に訪れますが、ことごとく失敗。
……なんてあたりも、以前の日パラ通信で書きました。

このあたり、スペインとポルトガルの違いも大きいのかも。

当時の東南アジアはポルトガルのナワバリで。スペインは(今のブラジルを除く)アメリカ大陸と、東南アジアではフィリピンだけはスペインのものでした。

スペインがアメリカ大陸を広く武力で制圧したのに対し、ポルトガルは、ゴア、マラッカ、マカオといった拠点を確保しつつも地域全体を支配しようとはしていない。
で、布教。
ポルトガルが差し向けたのはイエズス会で、カソリックの中でも、宗教改革の中で生まれた新興派閥といったらいいのか。
対してスペインはフランシスコ会とかドミニコ会などのカソリック守旧派といったらいいのか。

すいません、このあたり難しくて良く解らないのですが。このあと、日本がキリスト教を禁教としたのも、スペイン船でやってきたフランシスコ会とかドミニコ会の宣教師の振る舞いが最後のトリガーになったのかもしれません。

“鎖国制度”という呼び方も含めて、その成り立ちやそこに関係する宗教問題に関してはかなり難しい問題なのですが。鎖国制度が日本の造船や航海術発展の妨げになっていたのは事実でしょう。

江戸時代の漂流民は、海上での漂流に加え、鎖国下の日本の社会からの漂流民でもあったわけです。